第八章
■日本のジャズの歴史■

 誰がなんといっても日本のジャズの歴史を話すときに南里文雄を抜きには考えられない。

 南里文雄、1910年生まれ。ことこれが歴史ということになると、小さくさかのぼるときりのないことが多い。私の目で見たディキシーランドジャズの歴史と言うとやはり南里文雄ということになる。1910年というと、明治43年ということになる。しかし情報網の整った現在ならいざ知らず、アメリカに行くのも船という交通手段しかない時代にジャズをやろうというのだから想像を絶する。

 絵でも音楽でも同じだが、情報があって初めてできあがるものだ。その情報の少ない中にあって、あれだけ完成度の高いジャズを演奏したということは称賛に値する。
 南里文雄に匹敵するプレーヤーというと、現在ではかなり各種楽器で存在すると言ってもよい。しかしそれはあくまでも情報網の発達と無関係ではない。

 そういう意味で南里文雄を私は日本のジャズの草分けとしたい。南里文雄が1番活躍したころ私はまだ子供だったのでよく事情がわからないが、商業ベースという意味ではあまりうまくはない印象を持っている。一口に商業ペースというと悪い印象があるが、芸術を追求したからといって、メシが食えなければ意味がない。そういう意味で薗田憲一の名前は、はずせない。

薗田憲一、1929年生まれ。トロンボーンプレーヤー。ディキシーキングスのバンドリーダーとして35年の歴史を持っている。日本の現在のディキシーランドジャズスタイルを確立した人物といってもよいだろう。
 プレーランドでの演奏、各種イベントでのマーチング演奏等、それで生活を成り立たせながら、ディキシーランドジャズを日本に根付かせがという功績は称賛に値する。
 歴史をさかのぼってどんな芸術家、各種達人等、時代時代に活躍した人物をひもといて見ても、決してきれいごとだけでは片付けられないことが多々ある。薗田憲一が確立した日本におけるディキシーランドジャズの有り様は、ある意味、商業ベースと言わざるをえない点があるが、あくまでも生活ができ、仕事として成り立っての話だ。
 ディキシーキングス出身のプレーヤーで優秀な人材が輩出されているのも事実である。優秀な人材と言った後で言いにくいが、実は私も8年間在団経験がある。

 「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉があるが、過去のさまざまな人の力によって日本に根付いたディキシーランドジャズの火を、絶やさないようにするのが私たちの役目だと思っている。

 今や、何事においても情報網の発達でグローバルな考えで世の中が進んでいる。しかし芸術は民族という遺伝子の問題で、取り入れにくいこともある。ジャズの場合、言葉の問題、それがボーカルでなくても、舌の動き方、リズムの取り方など大きく影響される。

 最近中高生にジャズを教えに行くことが多いのだが、1番難しいのはジャズの微妙なはね方、これを教えるときに、英語のひとフレーズで教えるとうまくいく場合が多い。
 日本語の場合は1つの音符に1つの言葉があてはまる。これは偶然イタリア語にもいえることだが、英語の場合は、音符ひとつにいくつかの言葉が入る。例えばジャズという言葉ひとつとっても「ジャーズ、ジャーズ、ジャーズ」微妙にスイングしている。これが日本人においてのジャズの難しさに通ずる、いわゆる民族の遺伝子ということである。

 同じアメリカでも、黒人と白人とではリズム感に大きな差がある。それは音楽だけでなくダンス、舞踊などの体の動き方にも影響を与えている。いくら日本人あるいは白人たちが上手にリズムダンスを踊ったとしても微妙な体の動き、体のくねらせ方などに違いを感じた方は多いことと思う。それでは対応の仕方は不可能に近いとお考えの事と思われるが、幼児体験などによって相当の部分解決されることが多い。

 私たちが今回アメリカに行って現地の人に驚かれたのも、民族の違い、文化の違いなどを超越したところにポイントがあったと思う。
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