第七章
■ディキシーランドジャズの仕組み■

 ディキシーランドジャズのことを初めての方のために少々説明をさせていただきたい。
ディキシーランドジャズは先ほども少し説明したが、アメリカの黒人の間から自然発生的に生まれた音楽だ。ことの始まりというのは何事もこれといった決まりはないが、それが一つの形を作り始めたときに、法則が生まれてくる。

 初期のニューオーリンズジャズを考えてみると、ドラム缶、バスタブベース(ブリキ制の西洋たらいにモップを支柱に弦を張った簡易楽器)、肉声、丸太をくりぬいた打楽器、などで始められたと思う。だんだん白人たちから手に入れた軍楽隊払い下げの管楽器などが加わりニューオーリンズジャズが始まった。

 当初から現在のスタイルが出来上がったわけではない。音楽の素養のない黒人たちの奏でる音楽は、リズムと歌(メロディー)を中心とした簡単な合奏だったと考えられる。
 徐々に黒人たちの生活も向上し音楽の基礎を学んだプレーヤーも現れた。それはまだ幼稚なものと考えられるが、しかし確実に自分たちのメロディーを演奏した。ハーモニーも充実し始め、何となく形がつきはじめたのは千八百年の終わり頃である。

 白人たちの手によってアレンジも施され正式なハーモニー感も身に付き始めた。メロディーに三度や六度の美しいハーモニーを付けたり、ベースが根音と五度の音をとったり、トロンボーンがグリッサンドで曲を盛り上げた。特にその奏法をテールゲート奏法と呼ばれる。

テルゲート奏法の語源は、この頃のバンドは、パレードの乗り物などでよく演奏をすることがあり、スライドの出し入れがじゃまになるトロンボーン奏者は乗り物の一番後ろに位置する。すなわちテールゲートである。それ以来音を下からしゃくるトロンボーン奏法をテールゲート奏法と呼ばれる様になった。このテールゲート奏法はディキシーランドジャズでは大きな特徴の一つである。

 チューバやバンジョーが多用されたのも野外でのパレード演奏が多く、ベースやピアノの代理としてしようされた。パレードというはニューオーリンズのお葬式などはその代表といえる。ニューオーリンズに発したこの音楽ジャズは、ニューオーリンズではニューオーリンズジャズと呼ばれ、シカゴに飛んでからはシカゴジャズと呼ばれている。

 ディキシーランドジャズと呼ばれるようになってからはウエストコースト、すなわちカリフォルニアの方ではサンフランシスコジャズなどとも呼ばれた。

 シカゴ派で有名なのはワイルド・ビル・デビソンを中心としたエディーコンドン(ギタープレーヤーで今でもニューヨークにクラブコンドンがある)一派。
 一方、ウエストコースト(カリフォルニアを中心としたグループ)では、タークマーフィーを代表に、新しくはファイヤーハウスプラス2など白人独特なディキシーランドジャズを展開した。

 ボビー・ハケット(トランペット)、ジャクTガーデン(トロンボーン)などのディキシーランドジャズバンドはディキシースタイルとしては末期で、ディキシーランドジャズと呼べる最後の形となるだろう。これより後はスイングジャズ、或いはカンサスシティースタイル、ビーバップ、モダンジャズに進歩していく。

 ディキシーランドジャズはアメリカだけにとどまらず、ヨーロッパ各地またアジアはもちろん日本を含む全世界的に広まった。特にヨーロッパでは独特のスタイルで発展していく。
 イギリスでは3Bと呼ばれ、ケニーボール、クリスバーバー、アッカービィルク。オランダではダッチスイングカレッヂバンド、デンマークではパパブーディキシーバイキングなど、多くのグループが生まれた。「モスクワの夜は更けて」はイギリスのケニーボール楽団、1960年代のヒット曲。

 1940年以降、ニューオーリンズのクラリネットプレーヤー、ジョージ・ルイスなどが世界的に認められ、リバイバルしたときは現役を引退していて沖仲師をやっていたとのことである。日本では1960年頃から、本格的にディキシーランドジャズを職業とするバンドが現れた。
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