第二十二章
■いざ、出発!■

 出発予定時刻を大分過ぎて成田を離陸した。私は飛行機に乗ったと同時に時計を現地時間に合わせることにしている。日本時間で午後四時半だからサンフランシスコは深夜の十二時半だ。今から真夜中だと思っていれば、日本時間の深夜でも、到着したばかりのサンフランシスコでの気持ちは十分に朝の九時だ。機内では出来るだけ眠るように心がける。それだけ向こうに着いて一日動けるからだ。

 離陸して一時間ほどで食事の時間となる。昔は良かったというのは嫌いな方だが、この食事だけは昔の方がおいしいと思う。ついでにもう一つ、これは間違いないと思うが、スチュワーデス(キャビンアテンダント)は昔の方がきれいだった。自分もおじさんの部類だから文句は言えないが「昔は良かったナー」。この時だけはおじさんさせて頂たい。

 飛行機は大変穏やかで離着陸の時のみ少し揺れただけで無事サンフランシスコに。
一年ぶりのサンフランシスコは朝が早いこともあり閑散としていた。イミグレーションも問題なくサクラメントに向かう小型飛行機の発着場へ。サンフランシスコはいつ来てもカラッと晴れていることはない。歌にもあるとおり霧のサンフランシスコだ。

 年を取るとともに感激というものがだんだん薄れるものである。二十代前半、グアム島に始めて着いたとき、飛行場税関の左利きの黒人、夜明けに見た飛行機からの窓外の朝焼け。横浜から船でソ連のナホトカ港に着いたときの小説に出てくる様な閑散とした景色。フィリッピンセブ島では飛行場に漂う椰子油のにおい、韓国のデパートでのニンニクのにおい、ニューヨークでのストリートミュージシャン、ニューオーリンズでの街の絵描き屋、タイバンコックの乗り物「ツクツク」、ハワイはマウイ島から見た海に沈んでいく太陽。一つ一つを鮮明に覚えている。人生も五十を過ぎて目に映るものに目新しいものもあるのであろうが感激をしない。感受性も老化したのだろうか。なにを見てもなにが起こっても
「そのくらいの事は有るんじゃないの?」てなぐあいだ。

 サンフランシスコに到着してトロンボーンプレーヤーの英二郎に大いに助けられることになった。通常のツアーの場合一行十人近くともなるとツアーコンダクターといういわゆる添乗員が同行し、黙っていても次の飛行機に無事に乗れるものだが、今回のツアーは観光と違い我々もワーキングビザでアメリカに入国している。総予算ということも有ってツアーコンダクターなしのケチケチ旅行だ。
そこで俄然英二郎が表舞台あらわれた。
過去ニューヨークにも十数回、また三ヶ月の長期滞在の経験もあり今回のディキシーサミットバンドの中ではナンバーワンの英語力だ。本来バンドリーダーである私がすべてしなくてはならない税関、また乗り換えの手続きなど英二郎が率先して始めた。変われば変わるものだ。ちょうど十年前のサクラメントジャズジュビリーの時英二郎は十二、三歳。
当時三年ほど通っていた英語教室程度の英語力の英二郎に私は言ったものだ。飛行機の中でのスチュワーデスに飲み物注文時の話であるが、
「英二郎良く聞けよ、ミルクといっても絶対に通じないから、メールクというのだぞ!」と今考えてみると妙な入れ知恵をしたものだ。その頃はまだ従順だった英二郎は私に言われたとおりに、
「メールク」・・・しかし実際に来た飲み物はアメリカのビール「ミラー」
そんな英二郎がバンドの先頭に立って税関手続き、サクラメント行きの乗り換え等てきぱきと率先して始めた。リーダーの立場が私から英二郎に移行するのが感じられた。
英二郎が十二才の時に音楽の上でも私を追い越したときと同じショック、うれしいとも、寂しい何ともいえない、何となく目線の定まらなくなるような気持ちだ。

 この英二郎のおかげで、二週間のツアーが無事に行くような予感がした。
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