第二十一章
■ここで私の妻を紹介しよう■
 私の妻は非常に面白く、彼女だけで一冊の本が書けるほどだ。その辺は次回と言うことにして、今度のツアーにあたってはどうしても一つ説明をして置かなくてはならない。

 実は、彼女は船酔いがひどいのだ。逆に私はといえば、かなり強い方といっても良い。

 四年ほど前、私達のバンドは仕事で船に乗る機会ががあった。、グアム・サイパン・小笠原諸島の全航程、九日間船旅だ。妻はマネジャーとして、同行することになった。九日間ともなると、バンドのユニフォームの手入れ、洗濯等、男では出来ない事も沢山ある。そういう仕事を手伝って貰うためだ。

 三万tクラスの大きな船である。私自身も船の仕事は始めてだ。元来メチャ海の好きな私は、こんな楽しい仕事は始めてといって良い。しかも大晦日がら正月に掛けてである。真冬に仕事とはいえ、グアム、サイパン、目が覚めれば周りは海だ。
 船で行くとはいえグアム、サイパンは外国で有る。もちろんパスポートも必要だ。

 晴海埠頭からの出航だ。ボンボヤージ演奏も結構たのしい。映画で見るような出航風景だ。銅鑼が鳴り乗船の客にはシャンペンが配られ、私たちのバンドもここぞとばかりにデッキで、ディキシーランドジャズを演奏する。私も初めてで要領は得ないが、なんといっても定番は、あの「錨を上げて」であろう。何度も言うが映画のワンシーンを再現しているようだ。
次の曲は「波頭を越えて」(オーバーザウェーブス)。長い間、ディキシーランドジャズの仕事をしているが、こんなに音楽がぴたりとはまったのは初めての経験。

 東京湾は波静かだ。レインボーブリッジをすぎるまで演奏する。寒さのため、乗船客は三々五々客室に帰っていく。三十分足らずでレインボーブリッジをくぐる。一回目のバンド演奏はここで終了。

 夕方には左に房総半島、右に三浦半島、この景色も何ともいえない。順風満帆とはこのこと。しかし妻がルンルン気分だったのはここらあたりまで。船が東京湾から外洋に出ると少し揺れてきた。私にとってこのくらいの揺れは、と思っているうちに、妻に変化が現れた。

「私ちょっとおかしい」と言いながら胃のあたりを押さえている。
「早いうちに薬を飲んだ方がよい」船酔いの薬を飲ませる。そうこうしている中に夕食の時間となり妻を誘うと「私パス」
すでにベッドに横になっている。実にこの時からグアムサイパンに上陸している時以外はこのベッドにしがみつきっぱなし。夜になって船が太平洋に出ると、ますます揺れてきた。

「グワー」ほとんど言葉になっていない。
「私は寝ているからあなた一人で食事をしてきて」と妻。しょうがないと思いながらも、バンドのメンバーと食堂に行く。船での食事も結構楽しいものだ。妻になにも食べさせない分けにもいかず、皿に消化の良さそうな食べ物を二、三のせ船室に運ぶ。
「これじゃどちらがマネジャーだか分からない」等と冗談を言いながらも、揺れる船の中、皿の食べ物をこぼさないように妻のところへ。朝食を早い時間にとったので空腹は間違いない。
「後で食べるからテーブルの上に置いておいてください」仕方なくテーブルの上に。
船が出航してからまだ五時間もたっていない。予定表によると最初の寄港地はグアムで、二日後。深夜になり船は太平洋に出た。ますます揺れは大きくなるばかり。
「船長、船を陸に着けろ!」普段冗談を言わない妻が苦し紛れに言った言葉だ。
うっかり私がバスルームいにはいると
「入ってはだめだ!」自分がいつもどすかと心配のためバスルームは、常時使用可能な状態でなくてはならないのだ。妻がこの苦しみから一時のがれられたのは、二日後の寄港地はグアムに着いたときだ。船酔いとはおかしなもので、上陸すると今までの苦しみが嘘のようにけろっとしている。しかし、船旅はまだのこり一週間続くのだ。
 グアムを出航するときは「船酔いの薬は信用できない」と船の医務室で注射を打って貰うことにした。私の年代では妙に注射というものを信じてしまう。風邪を引いても、飲み薬より注射の方が効く様な気がするのである。
「よーし、これで大丈夫!」自分に言って聞かせる様に笑顔を作る。
「注射が効いてくれれば」と注射に望みを託し、船はグアムの港を出ていく。グアムの島影が視界から消えるか消えない中に、妻はベッドにしがみついている。
「本当に船酔いの注射だったのか?」またもや悲痛な叫び声を上げている。せっかくグアム島で胃に入れたものを、体を通過せずじまいだ。
 サイパン島までは半日ほどで、とりあえず苦しみも半日で終了。
「何かあったの?」またもや「ケロッ」とした顔。船酔いとはそんなものらしい。
薬も、注射も、効かないことが分かって、残り六日間を地獄で暮らす様なものである。
サイパンから飛行機で帰国をと考えてみたが本人が、
「一人で、飛行機の中で酔うのはいや」とバンドと最後まで行動をともにすることにした。

マネージャーとしての役目は一つも果たさず、かえって私が三度三度の食事を運び、船中のコインランドリーで洗濯までする羽目におちいった。
 さすがに再び晴海埠頭に着いたときは、「性も根も尽き果てた」まさに地獄からの生還だ。
日本に帰ってからも、一ヶ月ほどは、車も運転できず目が回っていたらしい。妻の生涯で「これほど苦しんだことはない」といまだに思い出したくないらしい。

 さて今回は船ではないが、およそ十時間の飛行機だ。以前、大阪まで、たった一時間でダウンしていた。トロンボーンの英二郎と協議の結果、ビジネスクラスでつれていくことにした。私もマイレージがあるので、エコノミーからビジネスクラスにアップグレード出来たのだが、バンドのメンバーがエコノミーで私がビジネスクラスでは、とのことで、英二郎が付き添ってビジネスクラスに搭乗する事になった。結果的には、往復とも船酔い(飛行機酔い)せずにすんだが、何とも贅沢な話だ。

 私たち二人は育ったところ、また、育ち方も大きく違う。私が九州、別府市出身。妻は青森県津軽群五所川原だ。食べ物、私は薄口、妻は辛口、生活習慣、育ち方、それに伴う性格、まだまだいろいろあるが、根本的に私とこれだけ違えば立派なものである。

 共通しているといえば、年が近いと言うことで時代背景がよく似ている。私たちの時代は中学を卒業してすぐ働く、いわゆる「金の玉子」と言われた世代だ。妻の方は自発的に進学は望まなかったという。私はというと、学校に行きたかったが、行けない状況にあった。共通と言えば二人の間に産まれてきた子供をこよなく愛した事と、自分たちが行けなかった学校に行かせるという共通の目的があった。これはもしかしたら私の方の願いが強かったかもしれない。しかし、良く協力してくれたと感謝している。

 「何だい、最後はのろけか」と言う声が聞こえてきそうだ。二人の話はここまで。
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