第四章
■英二郎とトロンボーン後編■
 この頃から英二郎は父のバンドの準レギュラーとなり、学業に差し障りのない限り父のバンドのステージに上がって演奏をしている。

 ジャックTガーデンのレコードコピーをマスターしてからは、ディキシーランドジャズ関係ではコピーの対象にするプレーヤがいなくなった。ジャックTガーデン以降のトロンボーンプレーヤーというと、カール・フォンタナ(1928〜2003)、ビル・ワトラス(1939〜)、超絶なテクニックの持ち主ばかりだ。カール・フォンタナなどになると、メトロノーム四分音符にして360〜400のスピードで吹きまくるプレーヤーだ。これは、コピーする父も大変だが、それを演奏する英二郎はもっと大変だ。しかしこれも難なくクリア。
 いよいよコピー対象をのプレーヤーがモダンジャズトロンボーンの神様、JJジョンソン(1924 〜2001)に突入だ。JJジョンソンといえば「J&K」といって2トロンボーンで一世を風靡している。一方の「K」の方だがカイ・ウィンディング(1922〜1983)といってJJジョンソンと合い並び双頭といわれた名人だ。このレコードからコピーすれば一度に二人のプレーヤーを勉強できる。
 当時来日中だったこの二人のプレーをコピーした。曲目も「イッツ・オーライ・ウィズミー」とても通常の小学生では演奏できる曲ではない。
 この曲も三日間ででほぼ全曲暗譜をした。早速ステージのオファーがある。「シャープス&フラッツ」のソロトロンボーンプレーヤー粉川との競演が実現した。こうなると緊張するのは粉川の方だろう。後ろで聞いていた人も「どちらがどちらだか、分からない」というほどの評判だった。この時小学六年生。父と初レコーディングもこの年。

 この評判は日本だけにとどまらず、次の年にアメリカはサクラメントでワイルド・ビル・デビソンと共演している。
 これだけジャズをやっていてもクラシックのレッスンも怠ってはいない。高校進学も東京芸大附属高等学校一本にしぼり、一般の勉強もさることながらピアノ、ソルフェージュ、楽典等、超多忙な中学生活に突入だ。
 中学3年の時に初めてスタジオミュージシャンとしてスタジオの仕事をしている。このときばかりは、頼まれた英二郎より、頼んだインぺク(ブッキングする人)の方が緊張したと後で語っている。

 ジャズトロンボーンプレーヤーのレコードコピーもJJジョンソンの後は、もういないというところだったが、もう一人大変な大物がいた。フランク・ロソリーノ(1926〜1978)、この人こそ二十世紀最後の大物トロンボーンプレーヤーだ。前述のカール・フォンタナを一回り大きくしたようなプレーヤーである。
 そのすごさは「筆舌に尽くしがたい」とはこのことといえるだろう。今までの常識を大きく破り、このロソリーノを越なければ英二郎は世には出られないだろう。結論からいうともちろんすべてのテクニックをマスターした。

 東京芸大附属高校にも無事に入学が出来、スタジオ活動も本格的になった。そんな折りジャズのレコーディングが決まった。若手ばかりのミュージシャンによるレコーディングだ。この時少々問題が持ち上がった。ほかのメンバーはかなりモダンなのだ。英二郎といえばディキシーランドジャズ、スイングジャズ、モダンジャズとはいえJJジョンソンまでしか聞いたことがない。いかにJJジョンソンとはいえ時代の違いは感じられる。
 ディキシーランドジャズしかやったことのない「英二郎には無理か」
 世の中うまくしたもので、そんなときボストンのバークレー音楽大学の夏期聴講生として招待されたのである。ここでめいっぱい新しいジャズの手法を学んだ。
 「変わった!!。」
英二郎が大きく変わった。元々下地はあったのだろうが、夏の間の短い期間だけでモダンジャズをマスターできるというのは、本人の持っていた才能だろう。
 レコーディングは無事終了。このレコードを一枚で英二郎の音楽人生が大きく変わっていく。
 この年(16才)にレコード会社では大手のキングレコードと専属契約を結んだ。すぐさまニューヨークに飛び初のリーダーアルバムの作成だ。
 こうなるともう人のまねは許されない。英二郎自身のオリジナリティーを出さなくてはならない。
 しかし、このレコーディングも大変評判になった。いきなりジャズ紙スイングジャーナル人気投票でいきなり二位に登場する。またこの年日本のテナーサックスの大御所、松本英彦と競演している。

 高校生の英二郎にとってジャズが楽しいといえども大学入試が待っている。ジャズが少々出来ても大学に入れてもらえない。ねらいは東京芸大一本。学生生活最後の難関といって良いだろう。全国のトロンボーンの中から3人しか入れない。国立大学はセンター試験という音楽以外の勉強もかなり出来なくてはならない。といいながらもジャズクラブ通いは相変わらずだ。
 高校入試の時と同じく、クラシックトロンボーンはもちろん、ピアノ、ソルフェージュ、楽典、英語、国語の2科目、寝ている間があったのだろうか?
 学生生活最後の難関も無事突破。いよいよ大学生活始まるといったそのとき、親を嘆かせる問題が持ち上がった。スタジオ、ジャズクラブ、コンサート、等などで、大学に行く暇がない。
 「せっかく全国の中から3人に選ばれたのだから」との親の願いをよそに、大学は十日間通っただけだ。中学しか行けなかった父にしてみれば「残念」としかいいようがない。学校に行かなくなったぶんトロンボーンで活躍することが多くなった。

 このころになるとスタジオではトップクラスに躍り出た。それもそうだ。クラシック、ジャズ、ポップス、何でもこなすというプレーヤーは少ない。クラシックならクラシックだけ、ジャズならジャズだけ、ポップス系ならポップス系だけとジャンルで分けられるなか、オールマイティーとなれば忙しくなるのも無理からぬ話だ。

 あまり忙しく、自分の成人式の日にNHKの「青年の主張」という成人式の番組にオーケストラの一員として参加している。21才の時には読売交響楽団をバックに、トロンボーンコンチェルトを吹いている。二年に一度はニューヨークでリーダーアルバムを作っている。今回もサクラメントから名指しで出演依頼がきている。
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