第二十八章
■楠堂浩己■
ここで楠堂浩己についてもう少し詳しく書いてみることにしよう。

 楠堂浩己、本名、丸岡浩二、1951年6月2日大阪市生まれ。大阪商業高校卒。

 19才で大阪のジャズオーケストラを皮切りに、1971年上京、いくつかのバンドを経て、1975年24才で薗田憲一とディキシーキングスに入団。
 私自身、音楽またそれに関わるミュージシャンに関しては、かなり「先見の明」という自負があったが、楠堂浩己のドラムがここまで上達するとは見抜けなかった。

 彼が入団するまで私はディキシーキングスに在団していた。なんと楠堂浩己がディキシーキングスに入団するときのテストに私は立ち会っている。こういっては何だが、その時はまだ「マーチ」もろくに叩け無かった。それが2,3年でめきめき腕を上げてきたのである。目を見張るものがあった。文字通り「破竹の勢い」だ。

 楠堂浩己の祖父は和太鼓の奏者である。 隔世遺伝と言うことは良く聞くが楠堂浩己がそれである。やはり人間の才能というのは、何か裏付けがあるものだ。でなければ世の中には説明の付かないことが多い。

 元来何かことを始めようと言う場合に、個人差はあってもみんな同じだけ努力をするはずである。それがスポーツであれ、音楽であれ、ことは同じである。上達する人が努力するのか、あるいは言い方を変えると、上達できるから努力するのか、となると、後に残されたものは、もって生まれた才能と言うことになる。やはり楠堂浩己には天賦の才があったとしか思えない。同じ年代のドラマーを何人も知っているが彼だけが群を抜いて上達をしている。これが隔世遺伝でなくて他になんと説明が付くのだろうか。何度も言うようだが努力は皆しているのだ。

 世の中は残酷なものである。いくら努力をしても、その努力というものは世間的には何の価値もない。世間的に価値があるとすれば、それは結果だけである。

 結果だけに価値がある世の中を恨む人も多いことだろう。なにか私自身の愚痴のようになってしまったが、野球で言うと西武に入団した松坂、巨人の松井、イチロー等皆天賦の才であろう。

 日本という環境の中で楠堂浩己が、ジャズドラムにおいてここまで上達するというのは、やはり祖父の血が流れているというのが結論である。
 あと二日で楠堂浩己は私たちと合流する。


 私たちはサクラメントに来て四日目を迎えた。今日は5月23日、私の日記の天気欄にはサクラメントに到着した日から、快晴、快晴、快晴、今日も大快晴である。今日は割と大きなスーパーマーケット前の特設ステージである。南向きのステージは、わずかに日よけのテントがあるくらいで、少しテントからはみ出すと太陽を遮るものはほとんどない。思わずメンバーの間から
 「これは今日も暑いぞ!」案の定ステージでは日本の常識を越えた暑さだ。
それでも毎日熱心な観客が集まって応援してくれるので、ステージが始まってしまうと暑いというようなことは忘れてしまう。こういう気楽なステージでは、本番のコンサートに向け集まった観客から、どの様な曲が聴きたいのか積極的にリクエストを聞く。
 もちろん当たり前の話だが、リクエストの曲目が日本とはだいぶん違うようである。
 日本ではほとんど演奏されたことのない様な曲がリクエストされたりすると少々慌ててしまう。

 今日の演奏時間はPM2:00〜5:00である。相変わらず50分ステージ、10分休憩のペースで、進行することになった。慣れたというにしてはまだ二日目だ。体力的日からの配分を考えなくてはならない。

 本日のエキストラのドラムは少々元気がない。ドラムソロは長くて四小節、最高でも八小節以上はやらないと宣告された。
 「これは戦いにくいゾ!」ディキシーランドジャズにおいてのドラムの役割はトランペットについで重要である。ドラムソロが八小節以上は無理となるとリーダーとしては、ステージの組立に相当神経を使わなくてはならない。

 だいたいにおいてステージの一番盛り上がったところで、ドラムソロをやり更にに盛り上げてステージを終了するのであるが、一番盛り上がるところで八小節とは私としては拍子抜けである。

 「さてどうする」困ったときは英二郎に盛り上げて貰うしかない。今日のステージのとりはトロンボーン、英二郎のソロとすることに決めた。

 心配したステージもドラムソロで盛り上げるところはなかったものの、これと言った問題もなく本日終了。
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