第四十章
■ステージで第二次世界大戦の話■
 迷ったままステージは進行した。一曲目は司会に押し出されるように音楽が始まるので問題はない。問題の一曲目が終わってしまった。私は客席に問いかけてみた。

「Have you seen our band before?」(前に私たちのバンドを見ましたか?)
半分近い客が手を挙げた。

「Have you heard this comment ?」(このコメントは聴きましたか?)
同じく半分くらいの客が手を挙げた。当たり前である。二回目ならこのコメントを聴かない分けがないのだ。

 私は持っていたコメント用紙をステージに放り投げた。手にはなにも持たずマイクに向かった。

「Now ladies & gentleman」(皆さん)ここまでで後が出ない。少し間を空けて急いで先ほど投げ捨てたコメントを拾い上げた。客席は爆笑の渦だ。決して笑いを取るつもりではなかったがとっさに出たパフォーマンスだった。
 それからバントと観客の一体感が感じられた。


 私は英二郎を紹介するときに自分の生い立ちも話す決心をした。日本とアメリカには第二次世界大戦という大きな谷間が有る。この現実はさけては通れない。

 又あの第二次世界大戦では敵同士として殺し合い攻めあった。しかしあれから五十五年が経とうとしている。あの時15才の人でも今は70才近い。私がその時3才、今57才。私もあの戦争では被害者である。しかし今ジャズという文化を通じて、ここに日本もアメリカも無く一体化している。すばらしいことだと思った。

 それは、稚拙な英語ではあった。
 「I was born 1942 second war was end 1945 when I was 3 years old and my father die I was to grow in child home I was to graduate only junior high school then I was work &
work then I was marriage then Eijiro was born 」

 細かく言っても、大きく言っても 間違いだらけの英語とは思うが、私は図々しくもこれだけの英語を大観衆のアメリカ人の前で話した。
 「もう戦争のことはいいではないか。日本では禁止だったジャズを今こうやって、演奏し聴いている。敵国だった日本が敵国の文化ジャズを演奏、敵国だったアメリカ人が聴いている。戦争は遠い過去のことだ。平和が一番。」本当はこういうことを英語で言いたかったのだが、私にはあれが精一杯だった。

 ややもすると誤解を招きかねない戦争の話だ。意外にアメリカ人より先にバンドの中から反対意見が出てきた。少なくとも私より十歳は年下だ。
 「戦争の話はまずいのではないですか?」私より歳上の者が言うなら、納得もするが、朝鮮戦争以後に生まれた若いメンバーが心配をしている。まずメンバーが心配したのは
 「真珠湾攻撃」のことだ。私は
 「だったら原爆が」と口をついて出そうになった。
 「だからなにもかも忘れてジャズをやっているのではないか」
 今回、ジャズジュビリー参加において、私の一番大きなテーマだった。メッセージと言っても良い。

今回のステージ上の発言で意外にもメンバーと各個人が持っている戦争観について真剣に語り合うことが出来た。私以外はリアルタイムで第二次世界大戦を経験したものはいないのだ。私より若いメンバーは、歴史やニュースでしか戦争のことは知らない。
 しかし、私がリアルタイムだと言っても一、二歳の頃である。実際の戦争はなにも覚えていない。ただ戦後のつらい思いだけは確実にリアルタイムだ。
 「もしも」がゆるされるならば、あの戦争さえなければ私は確実に音楽学校に行き.....
やはり「もしも」の話は止めよう。


 大勢の客が見に来てくれると言うことで浮き足立とうとしているバンドにおいて、私の戦争と言う意外な発言で、戦争通して、ジャズを通して、又、日本とアメリカをより深く考えるチャンスが出来た。

 いろんな意味で充実した初日だった。残すところ後3日、音楽的にはなんとかやっていける自信が出来てきた。
 
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