第三十六章
■激寒のサンフランシスコ観光■

 ディキシーサミット一行中、六人がホテルロビーに集合した。中川家三人、後藤ご夫妻楠堂浩己、以上六人がサンフランシスコ二に行くことになった。向里直樹親子三人はロスのハリウッドスタジオに見学のために朝七時に出発した。ベースの小林真人は今年二月に北村英治バンドでサンフランシスコには来ている。その様なわけで、小林真人はレコードショップのため一人サクラメントに残ることになった。
 私はロビーで待ち合わせをしている時にふとみんなの服装見て
「サンフランシスコは寒いよ、ジャンパーかセーターを必ず持った方がよい」と助言した。
 サクラメントの三十度を超す真夏のような暑さからは、みんな想像もできないようだ。そうあれは確か十年前のことだ。Tシャツ一枚で、サンフランシスコのケーブルカーに乗って震え上がった思い出がある。

 ▼サンフランシスコ
人口: 約 724000 (90') 面積: 121.0 キロ平方メートル。サンフランシスコの名前の由来: 聖フランシスコから。別名フリスコとも言う。

 ▼地形/気候:
太平洋とサンフランシスコ湾を隔てる半島の突端部に位置する。40余りの丘からなる坂の多い町。新潟市とほぼ同じ北緯38度にあるが、気候はほぼ年間を通じて温暖。夏季は寒流の海流と内陸部の熱暑との温度差で霧が発生しやすく、気温はあまり上がらない。
冬季は雨が多く、年間降水量の大半は11月から3月の間に集中。
色々な歴史的な背景はあるが、なんと言っても、サンフランシスコは、霧と急な坂道が特徴的な美しい港町であり、温暖な気候と街の持つ自由な気風が人々を引きつけ、また、多様な文化の発祥地となってきた。

▼ゴールデンゲートブリッジ
ゴールデンゲートブリッジは、全長2789mの美しい吊り橋で、1937年に完成してから1959年まで世界最長の橋であった。

▼フィッシャーマンズ・ワーフ
魚師の船着き場として栄えたフィッシャーマンズ・ワーフ(Fisherman's Wharf)は、現在も船着き場、ヨットハーバー、シーフードの屋台などがあり、かつての波止場を思わせる雰囲気が残っている。

▼ロシアン・ヒルのロンバート・ストリート
サンフランシスコの曲がりくねった坂道はとても有名である。

▼チャイナタウン
サンフランシスコのチャイナタウンは、全米で最大規模を誇るチャイナタウンである。このチャイナタウンの中は、中国語があふれ、「ここはどこ?」という感じになってしまう。米中が入り交じった不思議な場所だ。

▼ツインヒークス
サンフランシスコを一望できるポイントが、ここ Twin Peaks。交通の便はよくないが、サンフランシスコ観光にきたら、ここには必ず行くべきだ。ここを知らずして、サンフランシスコを語るべからずといったところである。

▼ケーブルカー(Cable Car)
 サンフランシスコと言えば、急な坂とケーブルカーが名物である。ケーブルカーは、1873年に登場し、市民にとって不可欠な足として急速に発展した。サンフランシスコ大地震よりケーブルカーの路線が完全に破壊された後は、徐々に衰退し、一時は廃止の危機が訪れたが、1964年にアメリカ最初の動く国立歴史記念物に指定され、現在では、3路線が稼働している。ケーブルカーに乗るなら、ぜひケーブルカーの側面についているステップに柱に捕まって乗るのをお試しあれ。一番、サンフランシスコの坂を体感できる。

▼アルカトラス島
アルカトラスは"The Rock"等で悪名高き監獄として知られている。実際のところはゲニウスロキとでも言うべき、土地にまつわるさまざまな歴史が隠された興味深いところ。
 3000年ほど前には先住民が鳥の卵を取ったり、そこで魚を釣ったりしていたそうだ。
 1775年にスペイン人の探検家Juan Manuel de Ayalaがサンフランシスコにたどり着きアルカトラスの名前をつけた。1847年アメリカが、メキシコからアルカトラスを買い取る。
 1853年、サンフランシスコ湾を守るための島の要塞化が始まり、翌年燈台ができた。
 1859年罪を犯した軍人のための収容所ができる。これがアルカトラス監獄化の始まりである。
 1861年には非軍人も受け付けるようになった。大恐慌の後の1934年アルカトラスは連邦刑務所となる。
 1963年アルカトラスは維持費と運営費の高騰を理由に閉鎖された。それまでに14人が脱走を試みたが、一人も成功していない。アルカトラス島内では死刑執行は一度もなかったそうである。5人の自殺者と8人の殺人はあったそうだ。
 その後はほったらかしだったのだが、1969年アメリカ先住民による占拠が、世論の後押しもあり19ヶ月続いた。
 1972年にはアルカトラス島は国定公園となり、1973年より、観光客の受け入れをはじめている。アルカポネが投獄されたことでも有名である。


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 以上のような観光のスポットを教えられ時間のある限りさん見て回ることにした。
 サクラメントを出発したのが、午前九時過ぎ。
 およそ100マイル(160キロ)と言うから、車で2時間弱の行程だ。国道80号線を南に下るのだが、サクラメントの雲一つない青空、そのに暑さと比べて、サンフランシスコに近づくにしたがって、雲が少しずつ増えていく。先ほどまでガンガンかけていたクーラーも弱くし、到着する頃にはすっかりクーラーから暖房に変わっていた。
 予定通り2時間で到着、時刻午前11時、まずフィッシャーマンズワーフの駐車場に車をパークする事にした。
 それにしてもすごい寒さ、中には毛皮を来て歩いている人もいた。
 「さあここからは自由時間だ」次の集合時間を4時と決めた。何か問題があったら、英二郎の持っている携帯電話に連絡することに決め、取り敢えず解散。後藤夫妻は二人でツインピークあたりに行くそうだ。
 楠堂浩己以外、私たち家族はサンフランシスコには数回来ているので、取り敢えず腹ごしらえでフィッシャーマンズワーフで食事をすることにした。

 私はサンフランシスコに来るとなんと言ってもダンジネスクラブが食べたい。軒並みがシーフードレストランなどで、問題はなさそうだ。楠堂浩己がサンフランシスコは初めてだと言うことなのでアルカトラス島がよく見えるレストランに入った。
 「カニのミソを食わずにカニを食ったとはいえない」等といいながら、カニミソを捨てずに、ミソをつけたままのカニを、英語で注文するのがまた一苦労である。
こちらの人はカニミソを全部きれいに捨てるのでだ。日本人なら誰でもそうだろうが、(日本人が全部とは言わないが)だいたいカニミソが好きであると思われる。
 注文し終わって私の所には確かにカニが来たが、注文の仕方が悪かったと見えて、むき身のいわゆるカニのカクテルなるものが登場した。今日以外ダンジネスクラブは私の口に入らないと思い、根性を出しもう一度ダンジネスクラブミソありを注文する。もちろん、 「ミソ」のことは念を押した。どう見てもアラブ系と見られるウエーターは
 「オーイヤー」
 「今度は、丸まま一匹持ってくるのだろう」と、期待をする。次は確かにダンジネスクラブが丸のまま登場するには登場したのだが、残念なことにカニのミソはきれいに掃除されていた。私もこうなると意地である。
 「どうしてもミソが食べたい」今登場したカニの甲良を開けながらウエイターに再度ジェスチャーを交えて注文。三度目の正直でやっとミソ入りのカニを食すことが出来た。ふと気が付くカニミソ事件で、ミソも食ったが、ずいぶん時間を食ってしまった。
 急いで会計を済ませ、と言っても難しいのがチップの計算だ。トータルの15%であるから軽く暗算では出来ない。適当にすましてケーブルカーに乗ることにした。

ケーブルカーの料金は一回だけだの料金だと2ドル。一日何回乗っても良い「デイチケット」が6ドル。考えどこである。途中下車を一回でもしたらデイチケットの方が得だし、上まで行って帰ってくるだけなら4ドルですむ。
「あなたならどうします?」みんなで相談した結果、デイチケットで決まった。これなら途中で何回おりてもそんなに損することはない。ジェファーソン通りのケーブルカーの発着場から乗車することにした。すでに数人の人が待っており私たち一行はその次のケーブルカーに乗ることにした。次のケーブルカーを待つ間も、ケーブルカーの発着場では、黒人によるパフォーマンスが行われていた。待った時間は10分ぐらいであったがそのパフォーマンスのおかげで楽しく過ごすことが出来た

 ケーブルカーはいつ乗っても雰囲気のある乗り物だ。
 「サンフランシスコに来た」と言う実感がわく。私たちの前に70才近い老夫婦が手すりにぶら下がって乗っていた。つい私は席を譲ったが、手すりにぶら下がって乗るのが楽しいらしく丁寧に
 「ノーサンキュー、アイライク、ディススタイル」と言うようなことを言っていた。
 「ホェアフローム?」知っているわずかな英語で訪ねてみると
 「サンフランシスコ」なんと地元の方だった。その後
 「なぜケーブルカーに乗るのか?」と尋ねたら
 「I love cable car very much」とおっしゃっていた。私は東京にいて、東京タワーにも上ったことがないのに、「自分の住んでいる土地を愛する」という気持ちを学んだような気がした。なんてのんびりしたことを話している中に、ワシントンストリートでケーブルカーは止まったきりになってしまった。日本ならば誰かが運転士に文句を言うので、止まっているというのが分るのだが、誰一人文句を言うひとがいないので、しばらくは気が付かなかった。どうやらケーブルカーのラインの故障らしい。

 私のカニミソ事件で大分時間を費やしていたので、ここでまた故障の直るまで待っていると、どこにも行けなくなってしまう。先ほど仕入れた観光マップを見てみるとすぐそばにチャイナタウンがあった。
 このチャイナタウンと言うのもサンフランシスコの名所だ。6ドルも出したデイチケットが無駄になるがチャイナタウンに直行することにした。直行と言っても歩いて2分ぐらいの所にあった。観光案内にもあったが、横浜の中華街とはひと味もふた味も違う。まずはその広さ。私の感じでは銀座一丁目から五丁目ぐらいまであったようなそんな広さに感じた。

 中川一家三人、それに楠堂浩己が加わり4人でブラリブラリとチャイナタウンを歩いた。平日のこともあり、ほとんどが中国人ばかりでとてもサンフランシスコにいるとは思えなかった。だいたい中川家は観光が下手である。普通の人のようにどこかのお店をバックに写真を撮ったり、中国の珍しい鳥居なども、これと言った感激もなく通り過ぎてしまう。
 楠堂浩己が初めてなので私が気をつかって、
 「ラーメンでもいっぱいすすっていこう」と、英二郎に声をかけても反応はゼロ。
 次に見つけたお粥屋で、やはり英二郎に
 「お粥でも食べて中国の文化に浸ろう」
 「僕は食べたくない」の一点張りだ。今日ここで食べなかったら、少なくとも来年までは、食べるチャンスはないと口説いては見たが、結局食べずにウインドウショッピングのみでチャイナタウンを通り過ぎた。
 これがジェネレーションギャップというやつだろう。私自身も若い頃はそうだったかもしれない。ただ何となく楠堂浩己には申し訳なく、
 「次のチャンスは、二人っきりで行こう」年齢が違う若ものと一緒に観光すると、趣味も違えば、歩く速さも違う。そうかと行って英二郎とはぐれると、集合場所に帰ることが出来ない。坂の多いサンフランシスコの街を何キロ歩いただろう。

 「もうくたくただ」行ったところにちょうど待ち合わせの駐車場があった。
 こうしてただ歩くだけのサンフランシスコの観光は終わったのである。
 駐車場で売っていた屋台のアイスクリームを三段重ねして「焼け食い」をしチャイナタウンの「カタキ討ち」をした。

 ゴールデンゲートを渡ったところで、ボランティアの方が、気を利かしてくれて、記念写真を撮ることになった。「寒い!」丘の上であるからサンフランシスコの町中その寒さはより強く感じる。残念というか、仕方が無いというか、丘の上から見るゴールデンゲートは深い霧に包まれていた。思わず「霧のサンフランシスコ」こんな歌があったかどうかは知らないが
「晴れていても良いが、霧のサンフランシスコもいいもんだね」霧がよく似合う街だ。
 
 「暑い!」34〜5度はあるだろうサンフランシスコとここサクラメントは、わずか150キロしか離れていないのにこの違いだ。あのサンフランシスコの寒さが嘘のようだ。

 東京の真夏の真っ昼間と、軽井沢の早朝の違いだ。明日一日プリジュビリーをやったらあさってからいよいよ本番、今日は早く寝ることにした。
 いまだにこちらの時間に体がなれてないようだ。時差ボケだと思うが朝四時半に目が覚めてしまった。皆がまだ寝静まっているので、一人静かに冷蔵庫のドアーをあけてイモサラダとハンバーガーの残りで、夜食というか朝食にする。たぶんこの時差ボケも、うまくからだがこちらになれた頃に、日本に帰って日本で朝早く目が覚めることだろう。三時間ほど寝直した。

 今日のステージは午前十一時半から一カ所だけだ。オールドサクラメントの中にある
「リバーフロントルフージェ」と言う場所。ここは本番でも使うステージだ。早々とお客さんも集まっている。およそ一週間サクラメントのあちらこちらで演奏してきたので「日本のバンドは面白い」という評判が立っているようである。今までのお店の前での簡易ステージでなく、明日から使う本番用のステージだ。ステージから客席までサーカスの時に使うような大きなテントが張ってある。

 サクラメントでは、まず雨の降る心配はないので、雨よけは必要ないが、なんと言っても日差しが日本の常識では考えられないほど強い。完全に日よけテントである。演奏が始まる前に地元の怪しげなおじさんが我々日本のバンドにバンジョーを売りつけに来た。「ラディック」と言う1919年制のビンテージものだ。なんと700ドル。これは格安と言っても良い。日本に持って帰ると三十万円では売れると思うが、怪しげなおじさんだったのでぐっとこらえた。ステージ終了の少し前に良く見慣れた日本人の姿が見えた。
 「そうか、応援のツアーが到着しんだな」一般の日本からのツアー客はが今無事に到着したようだ。
 
日本からのツアーの連中にとっては、日本時間で言うと朝五時である。延べ12時間に及ぶ飛行機旅、今が一番からだのつらい時だろう。
 今夜六時からデキシーサミットのメンバーと歓迎のパーティーだ。ここはアメリカだから、アメリカ風に言えばウエルカムパーティー。
 
今回日本人のツアーが泊まったホテルはサクラメントでは一番良いホテルだ。ホテルそのものがよいと言うよりは、いわゆる地の利だ。コンサートを見る、買い物をする、なにをするにも一番、と言って良いホテルだろう。またこのホテルは、サクラメント市内およそ40カ所に有る演奏会場にアクセスするするシャトルバスの発着場でもある。
 午後一時半で、私たちのプリジュビリーはすべて終了した。いよいよ明日から四日間が本番である。六時のウエルカムパーティーまでに4時間ほど有るので、明日からでは時間が無くて出来ない、買い物をすることになった。

 Tシャツ、帽子、絵はがき、キーホルダー。オールドサクラメントの中にはお土産やさんがずらっと立ち並んでいる。しかし私は元来お土産というのを人に上げるのはあまり好きではない。なにを差し上げても、上げたものを見るたびに私のことを思いだして貰うのは忍びない。はっきり言っていやなのだ。そう言うわけでなるべく食べるものにしている。せいぜいとどまっているのは二日である。私からチョコレートを貰った方はそう言う意味であるので悪しからず。

 午後6時日本からのツアーの方々と私たちバンドのメンバー、アメリカからはジョージプロバート氏が参加した。およそ二十名である。
 このジョージプロバートと言う方は「ファイヤーハウス+2」の名ソプラノサックスプレーヤーである。「ファイヤーハウス+2」バンドはディズニーランドのスタッフで作った消防隊の格好をした日本でもおなじみのディキシーランドジャズバンドだ。後に付く+2がジョージプロバート氏である。1999年3月に初来日を果たした。このパーティーの中でジョージプロバート氏から重大な発言があった。その発言はみんなを驚かすのに十分な内容であった。ジョージプロバート氏が言うには、
 「I'm cancer」(私は癌です)と顔をいっぱいの汗を拭きながら、さらっと言ったのだ。
皆凍り付いたように驚きの表情でジョージプロバート氏を見、次に告げる言葉が無く一瞬の沈黙がその場に広がった。しかしその後で放射線治療でほぼ完治するとのことで、皆心配の中にも「ホッ!」した表情に変わった。

 日本と違って癌に対する考えが根本的に違うような気がした。もし私だったらその様なことを言われたらラッパなどか吹いていられないだろう。彼の精神的な強さとバイタリティーには頭が下がった。
 ジョージプロバート氏とは二ヶ月前に日本に来た時の話で盛り上がり、いっぺんに深刻な雰囲気は吹っ飛んだ。和やかな中におよそ2時間のパーティーは終了した。バンドのメンバーは明日も早いので早々に失礼をし、およそ5キロほど離れたホテルに帰った。

 「明日から本番だ頑張るぞ!」

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