第十三章
■私とジャズ■

 私がジャズを始めたきっかけは、アメリカの黒人とよく似ている。 アメリカの貧しい黒人は、スポーツで身を立てるか、または、音楽で身をたてる方法しかないといってもよい。たぶん現在でもそれは同じなろう。私が15歳の時がちょうど同じであった。

 15才になった私は、それまで育った孤児院を追われるように東京に出てきた。母と兄の住んでいる横浜の家に身を寄せたが、四畳半一間の安アパートだ。程なく横浜は元町にアパートを借りて独りで住むようになった。

 私は中学時代、学業は出来た方である。今は知らないが、そのころは試験の結果で順位を発表していた。
 「生めよ増やせよ」の時代に産まれた子供ばかりの集まりだ。一クラス四十五人、それが七クラスはある。全生徒三百人の中で十番以内には入っていた。そこそこ出来たと言って良いのではないか。高校受験には自信があった。自信はあっても家には金がなかった。
 その様ななわけで、学校に行くには金がない。さりとて何か身に芸があるわけでなく、スポーツをやるほど才能もない。

 子供時代の音楽の経験と言えば、私のいた孤児院はキリスト教係という関係で、教会のオルガンの経験があるといえば、あると言うくらいものである。
 私の兄がクラリネット、2番目の兄がトロンボーンプレーヤーだった。
時代は昭和33年頃だから、日本は戦後の復興の最中、またお隣、朝鮮戦争のおかげで大変な好景気である。 第二次世界大戦で敗戦という大きな時代のどんでん返しが、日本のそれまでの価値観を変えたといってよいだろう。

 「欲しがりません勝つまでは」の、精神で育った当時の人たちは、急に手に入れた自由とお金で、ナイトクラブやキャバレーで湯水のようにお金を使いまくる。必然的にそれらの店では、俄づくりの音楽家たち(いわゆるバンドマンというやつだけども)が、大量に必要になる。
 平成の現在では、とても考えられない現象だが、まず楽器さえ持っていれば、また少し音が出ればいくらでも仕事になった時代だ。私も例にもれず、八千円で手に入れたトランペットを1、2カ月練習して、早速ナイトクラブの4番トランペットに仕事が決まった。南里雄一郎とレツドペツパーズであるるそれでも、少なくともその当時のサラリーマンより2倍の収入があったであろう。
 しかし、その時代の音楽のレベルは今から考えてみると問題にもならないほどの幼稚なものだろう。楽器さえ持っていれば仕事になる。時代がそれを許したのである。

 当時の私は、なんとかトランペットで身を立てたく必至の思いで勉強をした。その様な時代だからまともな先生もいない。
この頃横浜のナイトクラブで働いていたのが、ジェームス三木、青江三奈。勿論良い楽器もなく、根性で何事もなると思い、ただがむしゃらに練習を繰り返す。ハングリー精神だけは、だれにも負けていない。

 18歳のときには日本でも指折りのジャズバンドに入団した。昔の方ならご存じだと思うが「小野満とスイングビーバーズ」というジャズオーケストラだ。
 昭和36年。当時はテレビでも舞台でもオール生バンド、現在のようにカラオケなどは絶対にない。したがって、その忙しさたるやめちゃくちゃで、朝からテレビ番組、夜はダンスホール、深夜はレコーディング、若かったから体が持ったようなもんだ。

 五年ほどいた「小野満とスイングビーバーズ」も二十三才で退団。「東京ユニオン」にひっこ抜かれる。
 やがてそこも1年でやめ、いよいよディキシーランドジャズとの遭遇だ。
話は横道にそれるがトランペットの日野皓正とは、偶然同じ年である。彼がモダンジャズの方へ進み私はディキシーランドジャズの方へ進んだ。
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