第十二章
■中川少年■
ここで私の幼少時代の話をしてみよう。

 私は1942年(昭和17年)満州奉天で生まれている。昭和10年頃両親(父吾郎、母静江)は家族の反対よ押し切り駆け落ち同然で満州にわたっている。
 父は現在の東京芸大卒のバイオリンニストで中国は新交饗楽団で演奏をしていた。
当時の音楽家、芸人達は大変な遊び人で、私の父も文字通り、飲む、打つ、買う,の三拍子そろった立派な音楽家だったらしい。これはあくまでも母のいうことであるから、真実の程はわからない。父はホントにそうとうの遊び人だったらしく、芸者遊び、賭けマージャン、釣りに趣味の落語と寝る暇もないほどだったようだが、しかしよく五人も子供を作る時間があったものだと思っている。
 この中の釣りと落語だけは私が受け継いでいる。また、満州での生活は恵まれていて、お手伝いさんは常時7、8人いたそうだ。
 もちろん私には当時の記憶は何もないので真偽のほどは定かでない。
私が生まれてから3年で日本は敗戦を迎えいわゆる引き上げ者となった。父は遊びがたたったのか、引き上げの苦労がたたったのか、当時は不治の病といわれた結核にかかる。
 日本に上陸後即入院。上陸先の病院に収容されその病院で死去。その時私はまだ四歳。そこはキリスト教系の病院で離れには孤児院も併設しており、われわれ5人兄弟もとりあえずその孤児院に収容された。
 そのころは戦災孤児も街にあふれ、われわれ5人を全部収容しきれなかった。
 5男の隆史は北海道の父方の親せきに養子に出されている。
 二男の淳は手のつけようのないワルで広島県の離島に収容。
 三男の雅広は別の施設に預けられた。
 私は広島市基町の同じキリスト教系の孤児院に収容された。その孤児院の園長は非常に慈愛に富んだ素晴らしい教育者だったが、それも後でわかったことである。
 当時3、4歳の私には食べるものもないひもじい思いと、寒い思いまた、布団は小便くさく何から何まで満州での暮らしとの違いにそして兄弟バラバラになったことが重なり、ただやたらに泣くばかりであった。
 そこで私は洗礼を受け幼い心の中にキリスト教をたたき込まれた。そのキリスト教の教えは、良し悪しは抜きにして私の一生を左右している。いまだに何かあると胸に十字を切ってしまう。
 私は小学校1年の時に登校拒否を起こした。もちろんこのことは広島での出来事だ。
 その時の自分の心境というのは思い出せないが、状況から判断するに、母と別れ兄弟と離ればなれになり、子供心にやけになっていたのだろう。業を煮やした当時の私の指導員はもちろんキリスト教などでシスターだが、手に負えないと思ったらしい。
 小学2年生の時に別府に送り返された。
 別府での指導員が大変であった。
 昭和二十二、三年のころであるからほとんどの指導員が兵隊あがりである。
 キリスト教の施設であるから全員指導員がシスターであればよいのだが、収容されている子供が、いわゆる浮浪者だ。シスターの手に負えないのである。
 それこそ町にたむろしていた戦災孤児たちの集まりである、女性であるシスターたちの言うことを聞くわけがない。
 そこでのが復員して帰ってきた人たちを指導員として雇い入れた。
 復員して施設の指導員となった人たちは、自分たちがそれまで指導員たちが教育を受けた軍隊式のやり方で子供たちを教育しようとしたのである。
 それは7歳の私にとっては恐怖のほか何物でもない。いまさら広島に帰るともいえず、絶望感と恐怖の中の毎日であった。
 これがせめて15、6歳ならば家出でもして、何か抵抗ができるのである。悲しいかな、7歳の自分には無抵抗といったほうがよい。すべて甘んじて受けざるをえない。
 またこの時代の世相は殺伐としたもので、養護施設である孤児院にまで泥棒の入るようなご時世である。子供たちだけで寝ている私は、実際に2回ほど泥棒と遭遇している。
 それからというものは夜が怖くて怖くて寝ていられないのである。
 この恐怖は十五歳になるまでの7、8年間続いた。親と一緒に暮らしていたらこんな恐怖などなかったのにと思う。
 よくよく子供時代のものを引きずっている自分であるのか、この恐怖心にも手を焼いている。妙に開きなおった自分と、何にでも恐怖を感じる自分とが、混然一体となり、いまだに葛藤しているのである。
 広島と別府の施設の園長は同じ人であるが、なかなかの人格者であった。
 指導員たちが暴力を振るっていたのを知っていたのかしらなかったのかはいまだになぞである。
 具体的な話をすると、「海軍精神混入棒」なるものがあり、ことをあるごとにその棒でケツをひっぱたかれるのである。その後に必ず言わなくてはいけないことがあった。
 「ありがとうございました!!」
 家庭内暴力所の騒ぎではない。
 また怖いのが連帯責任である。誰かが学校の帰りなどに問題を起こすと、その制裁は全体に及ぶのである。しまいには2列に並ばせられ、向き合った仲間のほほの叩きあいをさせるのである。いつも一緒に暮らしている仲間のほほなど叩けるものではないが、もし手加減でもしようものなら、その10倍が指導員から返ってくる。今思いだしても「ゾー」とする。指導員たちの暴力以外に、年長者から年少者に対する暴力、これもまたひどいものであった。
 なにしろ「殴られなかった日」という記憶が私にはない。
 もしこれが平成の世の中であれば「どこそこのヨットクラブ」のように大問題である。

 ここまで書けば、不幸のどん底の子供時代を過ごしたようだが、神様はよくしたものだ。
 どんな境遇にあっても、年がら年中悲しいというわけではない。
 当時別府に駐留していた米軍からは、毎週日曜日に招待され七面鳥やコカ・コーラをたらふくごちそうになった。またボーイスカートにも入隊し夏はキャンプ、冬は雪山登山など楽しいこともたくさんあった。
 その孤児院の園長を私たちは「母(ハハ)さま」と呼んでいた。今はなくなられたが、いまだに堂々と「育ての母」と呼べる人だ。
 きっと園内の暴力などを知らなかったのであろう。
 私には細々であるがピアノを習わせてくれ、教会でオルガンを弾かせてくれた。
 ホルスタインの牛の世話を任せられ、つらい日々の中にあってこの時だけが心の和む思いだった。
 これだけの思いをして子供時代を過ごせば、差別を受けたアメリカの黒人たちと「ため」をはれるだろう。
 以上のようなことから私にはジャズをやる資格が十分にあると思っている。
 スローブルースを演奏しているときなどは胸につらさが込みあげてくる事がある。

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