第一章
■サクラメントジャズジュビリーへの招待状■
 1998年6月のある日、それは一通の手紙から始まった。
いつものようにポストから取り出した郵便物に交じって、明らかに日本からのものではない封筒が目にとまった。

「うーん、あれかな?」
よくいう期待と不安である。恐る恐るといえばオーバーだが、慎重に封筒にハサミを入れる。英語力には全く自信のない私ではあるが、その文の中に「your band invite」という文字が発見できた。

「ついに来たぞ!」
といっても絶対、100%の確信があるわけではない。その手紙をすぐに3人の友人にファックスをした。なぜ人にファックスをしたかというと、翻訳というのは個人差がある。3 人の翻訳を突き合わせて見ればまず間違はないだろう。 1週間後には3人からの翻訳が届いた。明らかに、1999年、サクラメントジャズジュビリーへの招待状だ。それも今までのように私 1人ではなくバンドとしてのグループでの招待だ。

 こまごまとした各種条件が書き込まれていた。出演料、滞在日数、ステージ回数、各種国際バンドの条件、等々、「これは友人クラスの和訳では間に合わないぞ」ということで、今度は正式に翻訳を生業とした人にお願いすることにした。 1週間後に和訳が郵送されてきた。
「もうこれは間違いない」

 大変なのはこれからだ。 その条件の中に 「あなたのご子息の中川英二郎を必ず加えてください」という文字も見える。すぐに英二郎に相談することにした。

 なにしろこのサクラメントジャズジュビリーというのは、ディキシーランドジャズのフェスティバルだ。 最近とみに英二郎もディキシーランドジャズから遠ざかっている。嫌がっているのではないが、それはそうであろう、 60年70年前の音楽を20代前半の男にやらせるというのは無理というものである。時代時代によって音楽は変化をするものだ。特にジャズというのは 1カ所にとどまるものではない。英二郎も例にもれず、今の音楽がやりたいのは当たり前だ。 恐る恐る英二郎に聞いてみた。予想に反して 「面白い話じゃない行こう行こう」2つ返事でOKをもらった。

  実は英二郎もちょうど10年前にこのサクラメントジャズジュビリーに出演している。 若干といっては若すぎるが12歳であった。ディキシーランドジャズ界では超スーパースターミスターワイルドビルデビソンとの競演だ。 12歳といえば小学年生の時だ。 5月の最終10日ぐらいであるので、学校は休みなわけがない。しかし親として私はその時考えた。学校も勉強なら、アメリカに行ってジャズをやるのも勉強だ。なんのちゅうちょもなく英二郎をアメリカに連れていった。

 当時12歳の英二郎は、日本では既に「子供のくせにトロンボーンを吹く」と、かなり評判にはなっていた。それを聞きつけたサクラメントジャズジュビリーのスタッフが親子2人を招待したのだ。その時の反響はものすごいものであった。日本人がジャズをやるというだけで向こうの連中はびっくりするのに、さらに 12歳の子供である。それがディキシーランドジャズ界の第一人者トロンボーンプレーヤー、ジャックTガーデンのレコードコピー「ベーズンストリートブルース」をそっくりそのまま吹いたのだ。びっくりしたのはそれを聞いたアメリカの観客だ。全員総立ち、スタンディングオーベーション。 決して日本の観客と比較するつもりはない。それは文化の違いなのだ。何事にも控えめな日本人に対してアメリカ人のそれは、それはそれはすさまじい。ストレートに自分を表現する。意気込んでステージに上がった私はすっかりかすんでしまった。相手が自分の子供だけに、悔しさ半分うれしさ半分である。

 10年前のその時も是非グループで出演させていただきたいとエントリーを申し込んだが実現しなかった。それから私は単独でサクラメントジャズジュビリーに参加はするけれども、グループでの参加は認められなかった。 それがついにグループでの招待状がきたのである。
 
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